うまく実らない年のことを、彼女は隠さない ― 映画『リトル・フォレスト』

うまく実らない年のことを、彼女は隠さない ― 映画『リトル・フォレスト』

正直に打ち明けると、はじめてこの映画を観たとき、私は少し退屈してしまったのです。畑を耕して、料理をして、食べる。ただそれだけが続く。事件も起きないし、誰かと劇的に分かり合うわけでもない。「で、何が言いたいんだろう」と、半分くらいの気持ちで観ていました。

主人公のいち子は、東北の小さな集落にひとりで暮らしています。トマトを育て、米をつくり、薪を割る。うまくいく日もあれば、いかない日もある。ある作物が、その年はうまく実らない。彼女はそれを、嘆くでも言い訳するでもなく、ただ「今年はだめだった」と受け止めて、また次の手を動かしている。

その淡々とした手つきを見ているうちに、私の中の「退屈」が、少しずつ別のものに変わっていきました。彼女は、結果を急いでいない。トマトが実るかどうかより、土に触れ、世話をして、待つ——その時間そのものを生きている。失敗した年さえ、彼女の暮らしの一部として、ちゃんとそこにある。気づけば私は、最初の退屈をすっかり忘れて、彼女の一年に見入っていました。

たぶん私は、何かを「うまくやること」ばかり考えて、その手前にある時間を、ずっと飛ばして生きてきたのだと思います。手を動かして、待って、ときどき失敗して。そのぜんぶをふくめて「自分でやった」と言えること。それが、自分の感覚に正直に暮らす、ということなのかもしれません。

退屈かもしれない、と身構えなくて大丈夫。むしろ、何かを焦って急いでいる時にこそ観てほしい。観終わるころには、うまくいかない日のある自分のことも、少し許せている気がするはずです。

うまくいかない日のそばにも、El Guardian の一台を。「がんばらなくても、ちゃんと見ているよ」――花畑の真ん中で、青い猫が、ただこちらを見ている。→ このケースを見る